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月光の中で 〜下巻〜

───── アレフランス(雨宮史典)


 俺達は水道橋を思わせる長く細い道を渡り終え、溶岩に浮かぶ島のような大地に足を踏み
入れた。
 目の前には大きな平たい石を組み合わせた石畳の広場が広がっている。しかし多くの個所
が傷んでおり、赤い岩肌を何カ所も露出させていた。俺達は歪んだ石組みをしっかりと踏み
しめ、たびたび足を取られながらも歩き続けた。
 石畳の広場を囲むようにして、何本かの大理石の円柱が立っていた。円柱はどれも太く、
牛の胴回りほどもある。しかし円柱の大半は途中でへし折れており、焼けただれた大地にそ
の身を横たえていた。
 歩き続けた俺達は広場の端に到達した。そこには焼けただれた建物の瓦礫らしきものが散
乱していた。砕けたレンガ、椅子の足、額縁の角、建物の梁……やはり遺跡の跡なのだろう
か?
「見て。あそこに宝箱があるよ」
 エディが指差した先を見ると、瓦礫に埋もれるようにして黒い宝箱が顔をのぞかせていた。
先ほどの宝箱よりはいくぶん小さいように見える。しかし縁取りの装飾や鍵の精巧さなどは、
なかなか立派なものに見えた。
「おーい。アルヴァ、仕事だ」
 俺は大きめの声を出し、瓦礫の山を掘り起こしていたアルヴァを呼び寄せた。
 アルヴァは嬉々とした表情を浮かべ、軽やかな身のこなしで次々と瓦礫を飛び越えてくる。
彼は二、三度手をすりあわせ、宝箱の正面に身をかがめた。
 アルヴァは小さな鍵穴をのぞき込み、何度かまばたきをして顔をしかめた。小さく唸って
宝箱の後ろに回り込み、蝶番に顔を近づけて注意深く指を触れる。しばらくして眉をひそめ、
再び鍵穴を調べ直した。彼は何度もそれを繰り返していた。
 やがて残念そうに首を振り、立ち上がって宝箱を見下ろした。
「魔法の鍵がかかってる。残念だけど、おいらじゃ無理だ」
 アルヴァは苦々しく口を開いた。
 突然、大気が大いに揺れ動くのが感じられた。全員が反射的に腰を落とし、油断なく身構
えて周囲を見まわす。
 溶岩流のはるか上空を羽ばたき、こちらに飛行してくる巨大な赤色の生物が確認できた。
赤くきらめく鱗に巨大な鈎爪。鋭い角と牙を持ち、背中に翼を生やしているあの生物は……
「赤竜だ!」
 アルヴァがうめくような声を出した。彼の目は大きく見開かれ、唇がかすかに震えていた。
 飛来した赤竜は俺達の上空に到達した。四人の姿が巨大な影に包まれる。橙色の炎に身を
包んだサラマンダーが二体、赤竜の前後を守るようにして付き従っていた。
「貴様、竜族たるこの私に挑もうというのか?」
 歳月を超越した地鳴りのような声が、大地と鼓膜とを大いに震動させた。
 俺は無言で剣を抜き、盾を構えた。
 アルヴァは腰を落とし、魔法のアイテムに手をかける。
 エディとファナは精神を統一し、いつでも魔法が唱えられるように準備をした。
「おもしろい。己の無力さ、その身で知るがよい!」
 巨大な咆哮が耳に突き刺さる。赤竜は地響きと共に石畳の広場に着地し、二体のサラマン
ダーもそれに従った。
 赤竜との戦いが始まった。
 一体のサラマンダーが手槍を振るい、俺に襲いかかってきた。身を翻して槍の刃先をかわ
し、胴体を目がけて剣を振り下ろす。爬虫類に似た金切り声をあげ、サラマンダーは大きく
後ろにのけぞった。
 俺はしてやったりの表情を浮かべ、顔を上げて赤竜の様子をうかがった。赤竜はこちらを
見据えたまま身動きをしていない。どうやら魔法を唱えようと精神統一をしているようだ。
「ファナ、魔法防御の準備だ!」
 俺は大声を上げて呪文の要請をした。敵の動きに細心の注意をはらい、辺りの様子を油断
なくうかがう。もう一体のサラマンダーが手槍をしごき、先ほどの奴と肩を並べてじりじり
と近づいてきた。
「ディーン、下がれ!」
 警告するようなアルヴァの叫び声が耳に入る。俺は即座に反応して後ろに飛び退いた。
 アイスジュエルの魔力が解放され、アルヴァの手から氷塊が吹き荒れる。少し間をおいて
轟音が鳴り響き、エディの手から灼熱の稲妻が吹き出した。
 二人の魔法はサラマンダー達を打ち据えた。片方がうめき声を上げ、地面に倒れ込んだ。
 かろうじて生き残ったもう片方のサラマンダーは、魔法を唱え終わったエディの方にふら
ふらと向かっていった。槍を構えたサラマンダーが目前に迫り、エディの顔が恐怖に支配さ
れる。
「させるかっ!」
 俺はサラマンダーに向かって突進し、力の限り剣を振るった。快心の手応えと共に真っ二
つとなったサラマンダーは、地面に転がって動きを失った。
 満を持して赤竜が目を見開く。唱えていた魔法が発動された。
「みんな、引け!」
 ファナが両腕を天にかざした。ルビー色をした半透明のバリアーが姿を現す。
 全員が半球体のバリアーの中に入ると同時に、炎をまとった巨大な岩石が次々と上空から
降り注いできた。
 岩石の一つがバリアーに命中した。バリアーの外側に青白い電光が走り、内側にはけたた
ましい騒音が響き渡る。やがて岩石は白い蒸気を上げ、焦げた臭いを残して塵に帰った。
 剣を持つ俺の腕に、細い指先が触れた。
「さっきはありがとう……怪我してない?」
 エディが心配そうな表情を浮かべ、俺の顔を見上げている。彼女の声は小さくて細く、半
分は轟音にかき消されていた。
「心配するな。大丈夫だ」
 俺は努めて明るい声を出した。手にした剣と盾を軽く持ち上げ、五体満足であることをエ
ディに示す。つかの間の休息に互いの表情がゆるんだ。
 外の世界は轟音と共に地面がえぐられ、大地に衝撃が走り続けていた。砕けた岩石や瓦礫、
埃などが盛大に舞い散り、バリアーの青白い電光と共に視界をさえぎっていた。
 やがて赤竜の魔法は途切れ、大地はようやく平静さを取り戻した。わずかな耳鳴りを残し
て轟音もかき消えた。舞い上がった砂埃が辺りに立ちこめ、バリアーの外側を霧のように覆
い隠している。
「赤竜は……どこにいるんだ」
 俺は神経質な口調でつぶやき、外の世界に目を凝らした。砂埃は徐々におさまりつつあっ
たが、視界が悪いことにかわりはなかった。
 次の瞬間、立ちこめていた砂埃に巨大な影が投影された。
 滑空してきたらしい影は砂埃を吹き飛ばし、バリアーの目と鼻の先に着地した。足元の地
面が大いに震え上がる。
「赤竜だ! こんな近くに!」
 仰天したアルヴァが叫び声を上げる。赤竜は間髪入れずに巨大な尻尾を一閃させた。
 バリアーは対魔法用で、物理攻撃には効果がない。赤竜の尻尾をまともに受けた俺達は、
それぞれ四方に跳ね飛ばされた。
「うおっ!」
 俺は蹴飛ばされた石ころのように、歪んだ石畳の上を転がっていった。凹凸の激しい歪ん
だ地面で何度かバウンドを繰り返し、離れた岩場でようやく止まった。
 俺は即座に立ち上がったが、頭がくらんで足がもつれ、平行感覚を失って再び地面に倒れ
込んでしまった。
「くそっ……みんな、大丈夫か!」
 俺は腹這いになりながら叫び、辺りの様子をうかがった。
 近くの岩盤の上に、エディが横向きに倒れている。
 遙か向こうの石畳の上に、ファナが仰向けに倒れている。
 アルヴァは何事かを叫んでファナのもとに駆け寄り、彼女の肩を懸命に揺り動かしていた。
 赤竜はこちらに横腹を見せ、アルヴァとファナに向かって呪文を唱えはじめた。
「アルヴァ、待ってろ。援護する!」
 エディの状態も気がかりだったが、一刻も早く赤竜の精神統一を破らなくてはならない。
俺は何回か頭を振って、なんとか立ち上がろうとした。
「ディーン、だめだ。ファナが気を失ってる!」
 アルヴァの悲痛な叫び声が耳に届いた。
 僧侶のファナが戦闘不能に陥った。失った体力の回復も難しくなり、魔法の防御も不可能
になった。詠唱を続けている赤竜の魔法にもよるが、最悪の事態になる可能性も否定できな
い。
「アルヴァ、退却してくれ! リターンロープを使ってくれ!」
 アルヴァはこちらに一瞥し、腰に下げた小袋をまさぐりはじめる。
 赤竜は魔法を唱え終え、燃え上がった灼熱の火球を創りだした。火球はアルヴァ達に向け
られ、狙い澄まして放たれる。
「アルヴァ、逃げろ!」
 俺が絶叫した次の瞬間、青く透き通った光がアルヴァとファナをやさしく包み込んだ。彼
等は混じりけのない青い輝きに姿を変え、彼方へと飛び去って行った。
 その直後、彼等のいなくなった地点に火球が炸裂した。
 健在だった大理石の柱が爆風をまともに受けた。根本を吹き飛ばされた円柱が、支えを失っ
て地面に激突した。落下した円柱と魔法の爆発は、赤くただれた大地を激しく震動させた。
 俺は赤竜の魔法の威力に肝を冷やしながらも、アルヴァ達が無事に脱出できたことに安堵
のため息をもらした。しかし彼等との距離が離れすぎていたため、魔力の効果範囲外にいた
俺とエディは取り残されてしまった。
「エディ、俺達も退却するぞ。テレポートの呪文だ!」
 俺は二、三度ふらつきながらも、頭を振ってなんとか立ち上がった。赤竜の様子を油断無
く観察しながら、エディの呪文が発動されるのを待った。
 しかし、呪文が詠唱される気配はない。
 俺は後ろを振り返った。エディは先ほどと同じ格好のまま地面に倒れ、身動きをしていな
かった。
「エディ!」
 俺は仰天して彼女のもとに駆け寄った。ひざまずき、神にも祈る気持で様子をうかがう。
かすかではあるが胸が上下している。命に別状はないようだ。
 俺は大きく息を吐き出した。急激に吹き出していた額の脂汗を拭った。しかしエディもま
た気を失い、戦闘不能に陥っている。
 大地がゆっくりと脈を打ちはじめた。
 片方の目標が消え失せたことを知り、もう片方の目標に向かって赤竜が歩いていた。
 俺の手のひらは急速に汗ばみ、喉はからからに乾いた。心臓は大地よりも激しく脈を打ち
はじめた。
「くそっ、赤竜の奴め!」
 俺はできるだけ平らな岩盤を選び、そこにエディを仰向けに寝かせた。剣と盾を構えて立
ち上がり、じりじりと彼女から離れる。エディから十分な距離をとり、できる限り時間をか
けて赤竜と戦うのだ。エディが意識を取り戻すまでは、なんとしても持ちこたえなければな
らない。
 エディが意識を回復したら、ただちにテレポートの呪文を唱えてもらう。なんとか二人で
脱出するのだ。俺はテレポートの呪文が発動する瞬間、魔法の及ぼす範囲の中に滑り込めば
いい。
 最悪の場合は、エディだけでも……
 嫌な味のつばをのどの奥に押し込み、目の前に迫った巨大な赤竜と対峙した。みぞおちが
きりきりと痛み、胃が激しく収縮を繰り返していた。
 赤竜は右の前足を振り上げる。そして勢いよく振り下ろした。
 俺は巨大な鈎爪を盾で受け止め、なんとか受け流す。
 いったん赤竜との距離をとって、体勢を立て直そうかと考えた。しかし下手に動き回ると
攻撃の対象がエディになる可能性もある。なんとかこの場所で踏みとどまり、戦い続けなけ
ればならない。
「くらえっ!」
 赤竜の足をめがけ、渾身の力を込めて剣をふるった。
 しかし手応えはない。
 以前戦ったドラゴンゾンビとは勝手が違った。赤竜の全身を覆った硬い鱗が、剣の一撃を
跳ね返していた。
 間髪入れずに赤竜の尻尾が飛んできた。盾で防御をしたが間に合わず、俺は彼方へと飛ば
された。
「ぐわっ!」
 横たわっていた大理石の柱に背中から激突し、肺の中の空気が瞬時に消え失せた。肩から
地面に崩れ落ち、うつ伏せになって地面に倒れ込む。激しいしびれが体の隅々を駆けめぐっ
た。力が入らず、身動きが出来ない。
 大地が規則的に震動している。
 頬にひんやりとした岩石の冷たさを感じながら、ぼんやりとした頭で考えた。この地面の
震動は……赤竜が俺に向かって歩いているのだ。
 ――とどめを刺しに。
 圧倒的な絶望感が頭の中を支配した。あと少ししたら、俺の体には赤竜の鈎爪が埋め込ま
れるのだろう。
 死に至るのだ。
 そして、その次は……
「エディ!」
 目を見開いて歯を食いしばり、必死になって立ち上がろうとした。しかし思うように力が
入らず、仰向けになって地面に転がった。気を失っているエディの力になるどころか、立ち
上がることすらできなかった。
 俺は天を仰いで唇を噛んだ。
 力不足の自分を呪った。
 無様な姿の自分を罵倒した。
 無謀な計画を立てた浅はかな自分を蔑んだ。
 それらの言葉は波となって次々と押し寄せ、頭の中を完全に埋め尽くした。それらは何度
も何度も繰り返して渦を巻き……やがて自分の中ですり切れた。
 俺は目を閉じた。
 自分に訪れる死を待った。
 そしてエディの顔を思い浮かべた。
 やがて迎えることになるエディの死が、つらいものでないようにと心から願った。
 俺はエディのために涙を流した。


 一瞬、昆虫の羽音に似た低くて暗い響きが耳に入った。
 その音を合図にして地面の震動が止んだ。赤竜の足が止まったのだ。
 やがて大地は小刻みに震えだした。赤竜は何者かを威嚇するような低いうなり声を発して
いた。
 ――何かが起きている。
 俺は強めのまばたきを繰り返し、状況を把握しようと辺りの様子をうかがった。
 遠く離れた岩の地面から、鮮血色をした炎が天高く立ち上っていた。上空に舞い上がった
炎は徐々に黒さを増し、次第に輪郭を形作っていく。
 やがて赤黒い目と黒き炎の鱗を持つ、冥界より召還された黒竜へと姿を変えた。
「あれは禁呪の……カオスフレアか!」
 術者の能力次第で、より強力な黒竜が召還できる禁断の呪文。
 絶え間なく昇る鮮血色の炎に、両手を天に突き出しているエディらしき姿が投影されてい
る。彼女の足元には大きな円形をした漆黒の魔法陣が広がっていた。
 赤竜は突如現れた黒竜に対し、有利な位置を確保しようと翼を広げて上昇していった。黒
竜は距離と高度を保ち、どう猛さをむき出しにした目で赤竜を見据えている。
 やがて周囲の火山をも震わす咆哮が響き渡り、竜達の戦いが始まった。
 黒竜が赤竜にからみつく。
 赤竜が炎の息を吐きだす。
 黒竜の鋭い鈎爪が赤竜を襲う。
 赤竜の巨大な尾が黒竜をなぎ倒す。
 竜達の戦いはまったくの互角だった。上空からは竜の唾液やら血液やら鱗などが絶え間な
く降ってきた。
 俺が失った全身の感覚は時間と共に戻りつつあった。地面に落ちた剣をなんとか拾い上げ、
骨をきしませて立ち上がる。竜達の戦いに細心の注意を払いながら、よろよろとエディに近
づいていった。
 エディは少しも休むことなく、強力な黒竜を召還し続けている。明らかに魔法の使いすぎ
だ。再び気を失ったりはしないのだろうか?
 俺は魔法陣の近くまでたどり着き、心配そうにエディの様子をうかがった。
 エディは天に向かって両腕をあげ、精神集中を続けている。その姿を目の当たりにした俺
は息をのんだ。
 エディは夜藍色の仮面を――デスマスカレイドを――被りながら黒竜を召還していた。冥
界より召還された強力な黒竜は、エディの生命力を犠牲にして呼び寄せられたものだった。
「やめろ、エディ!」
 俺は半狂乱になって叫んだ。
 彼女は相変わらず黒竜を召還し続けている。呪文を終える様子は無い。
「エディ、聞こえないのか! やめてくれ!」
 彼女の側に駆け寄って、顔から仮面をもぎ取ろうとした。しかし魔法陣の縁からは鮮血色
の炎が盛んに吹き出している。とても近づくことができない。
 ローブから突き出したエディの細い両腕は、風雨にさらされた骨のように白くなっていた。
「エディ!」
 喉がつぶれるほどに叫んだ瞬間、炎と魔法陣が消え失せた。
 俺は反射的に走り出した。エディは魔法陣が消えてもなお、天に向かって両腕を突き出し
ていた。
 素早く彼女の側に駆け寄り、顔から仮面を外した。俺は手に持った呪わしき仮面を憤怒の
目でにらみつけ、力の限りをつくして岩盤に叩きつけた。
 エディは上げていた両腕をだらりと下げ、頭を垂れて両膝をついた。やがて魂を抜き取ら
れたかのように、うつ伏せになって地面に倒れ込んだ。
 俺は急いでひざまずき、エディの体を抱き起こす。
 エディの体は仮面に生命力を搾り取られ、打ち捨てられた死体のように冷たくなっていた。
冷気すら感じられるほどだった。
「エディ……エディ……しっかりしろ!」
 抱き起こした彼女の体に、緑がかった小さな光が降りてくる。
 光は星のように静かにまたたき、実に長い時間をかけてゆっくりと舞い降りてきた。やが
て光はエディの体にやさしく触れ、小さく弾けて銀色の鍵へと姿を変えた。
「みごとだ……貴様にはその鍵をやろう……」
 頭上を見上げると、羽ばたいた赤竜が俺達を見下ろしていた。
 エディの召還した黒竜は姿を消していた。
「だが、次はこうはいかぬぞ!」
 赤竜の声には警告するような響きが含まれていた。
 やがて赤竜は俺達に背を向け、赤い岩肌を持つ山の影へと羽ばたいていった。


「エディ……エディ……頼む、目を開けてくれ!」
 俺は抱き起こしたエディに向かって必死に叫び続けていた。
 彼女の顔は切ないほどに白く染まっていた。体の中に灯された命の炎が、しだいに細く小
さくなっていくのが感じられる。俺は何度も何度もエディの名を呼び、懸命に肩を揺さぶり
続けた。
 やがて俺の声がかすれてすり切れた頃、エディのまつげが細かく震えはじめた。
 硬く閉じられたまぶたが静かに、ゆっくりと開いていく。
「エディ……」
 俺は安堵のため息混じりに声を漏らした。
 目を開けたエディは俺の顔を見上げ、しばらくぼんやりとしていた。そして急に顔をこわ
ばらせた。彼女の華奢な肩からは最大限の緊張が伝わってくる。
「ディーン……赤竜は……」
 彼女は乾燥した小さな声を喉から絞り出した。青ざめた唇はほとんど動いていなかった。
「どこかに逃げていった。エディの召還した黒竜が、赤竜を追い払ったんだ」
「アルヴァと、ファナは……」
「リターンロープで脱出した。無事のはずだ」
「そう……よかった……」
 エディはようやく顔をほころばせた。全身を覆っていた極度の緊張感が、ゆるやかに解か
れていくのが伝わってくる。
 俺はエディの様子を注意深く見守りながら、皮ベルトにくくりつけた小袋の中をまさぐっ
た。ポーションの入った瓶を探り当て、袋から取り出す。瓶は無事だった。地面に叩きつけ
られた時に割れなかったのは、不幸中の幸いだった。
「エディ、これを飲むんだ。体力を回復しろ」
 左手でエディの体をしっかりと支え、彼女の口元にポーションの飲み口を近づける。
「大げさね……魔法を使いすぎて、倒れただけなのに……」
「いいから、飲め。飲んでくれ」
 エディは目だけを動かして俺の顔を見上げた。やがてあきらめたような表情を浮かべ、小
さな口を遠慮がちに開いた。
 俺は赤みを失った彼女の唇に飲み口を近づけ、できるだけ慎重に傾けた。エディは少量の
ポーションを口に含み、長い時間をかけてゆっくりと飲み干した。
「ありがとう……少し休めば、私はよくなるから……」
「だめだ。全部のまないと」
 エディは小さく首を振った。
「私はいいの……あとはディーンが飲んで……」
 エディは俺から顔をそむけた。唇を硬く閉じたまま開こうとはしない。
 俺はエディの唇にポーションの飲み口を近づけ、飲んでくれるのを我慢強く待ち続けた。
 ずいぶん長い間、小さな意地の張り合いが続いた。
「……もう少ししたら、飲むんだぞ」
 俺はエディの気が変わってくれることを願い、しばらく待つことにした。
 エディをやさしく地面に寝かせ、手の届く場所にポーションの瓶を置いた。俺の両手の手
袋を外し、二枚重ねてエディの頭の下に敷いた。
 エディは銀色の鍵を手に取り、不思議そうな顔をして眺めていた。
「その鍵は赤竜がくれたんだ。黒い宝箱の鍵だと思うんだが……」
「赤竜の宝……見てみたいな……」
 エディは遠くの景色を眺めるようにして目を細めた。
「無理をするな。しばらく休んでからだ」
 俺はエディの体調を考え、諭すように言った。
「早く見たいの……宝箱まで……連れていってくれる……?」
 エディは弱々しくささやいて、こちらに顔を向けた。
 俺は断ろうと口を開きかけた。しかし彼女の懇願するような瞳がそれを押しとどめる。俺
は口まで出かかった断りの言葉をのどの奥に飲み込んだ。
「わかったよ。連れていってやる」
 俺はしぶしぶ口を開いた。
「ごめんね……」
 エディは小さく肩をすくめ、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
 俺はエディの体に両腕をまわし、注意深く抱き上げた。腕の中のエディは軽く目を閉じ、
力を抜いて俺の肩に頭をあずけている。彼女の体はおどろくほどに軽く、まるで大事な何か
が抜けてしまったように感じられた。
 俺は両腕でしっかりとエディを抱き、痛ましい思いを押し殺して歩き出した。いつしか空
は夕暮れ色に染まっていた。
 割れたステンドグラス、枝分かれした燭台、粉々の食器……エディと共に様々な瓦礫を踏
み越え、俺達は黒い宝箱の前に到着した。
 近くに大理石の柱が横たわっていた。そこにエディの体を下ろし、やさしく柱に寄りかか
らせる。俺は銀色に輝く鍵を握りしめて歩き、宝箱の前にひざまずいた。
「開けるぞ」
 夕日に鍵をかざしてきらめかせ、エディに声をかける。彼女は弱々しくうなずいた。
 俺は銀色の鍵をゆっくりと鍵穴に差し込んだ。少し間をおいて慎重に回す。箱の中からカ
チリと軽い音が聞こえてきた。
 黒くて重そうな宝箱の蓋が、音もなくなめらかに開いていく。
 俺は宝箱の中をのぞき込んだ。そこには一本の剣が納められていた。恐る恐る手を伸ばし
て剣を掴み、立ち上がってエディのもとに戻った。
「それが……赤竜の宝……」
「そうだ。抜いてみるぞ」
 白を基調とした鞘の表面には、金や銀の繊細な装飾が惜しげもなく施されていた。俺は剣
の握りをしっかりと持ち、一呼吸置いてからゆっくりと引き抜いた。
 剣の重さはほとんど感じられず、羽のように軽い。鏡のように磨き上げられた刀身は透き
通った光を放ち、神々しい輝きで揺らめいて見える。まるで神聖な炎が吹き出しているので
はないかと感じさせた。
「よかったね、ディーン……すごい剣だよ……」
 エディは目を細めて刀身を眺め、うっとりとした声を出した。鞘に右手を伸ばし、細い指
先で金色の装飾をなぞっている。
 俺は剣を持って立ったまま、柱に寄りかかったエディを見下ろしていた。
 彼女の姿は弱々しく、とても痛々しく感じられた。
 エディをこんな姿にしたのは未熟な自分自身だった。
 何事もなく立っている自分が本当に申し訳なく思えてきた。手にした剣がひどくつまらな
いものに思えてきた。
「エディ、こんなひどい目にあわせちまって……本当にすまなかった」
 俺は剣を鞘に収め、エディの側にひざまずいた。
「俺が頼りないばっかりに、あんな仮面を使わせることになったんだ。エディに仮面を使わ
せたのは俺なんだ。俺がエディに無茶をさせたんだ」
 俺はエディの顔を見ているのが辛くなってきた。自分を責める気持ちで胸がいっぱいにな
り、引き裂かれそうになった。
「私なんかのために……この手で何度も無茶してくれたじゃない……無茶はお互い様でしょ
……?」
 エディはやさしい笑顔を浮かべながら俺の右手を眺めていた。小さな手のひらを上げて無
骨な俺の手にそっと重ねた。
 エディのやさしさは俺の内側を激しく切り裂いた。俺は顔を伏せて下を向き、何度も何度
も首を振った。泣き出しそうな気持ちを押さえ込むのに精一杯だった。
「エディ……もう二度と無茶はしないでくれ……俺はエディを失いたくないんだ……」
「私だってディーンを……失いたくないの……」
 俺はエディの声に吸い寄せられるようにして顔を上げた。
 どこかで見たことのあるエディの瞳がそこにあった。
 それは出発前の宿屋で目にした、俺に何かを伝えようとしていた瞳だった。かすかに不安
が入り混じった、とてもやさしくて傷つきやすそうな瞳だった。
 俺は懸命に気持ちを落ち着かせた。
 そして自分の内側の深いところに耳を傾け、大事な何かがわき上がってくるのをひしひし
と感じとった。一つ一つを丁寧に噛みしめてしっかりと受け止めた。
 俺はたった今手にした気持ちを、決意に満ちた口調で彼女に伝えた。
「俺はもう二度とエディをこんな目にあわせたりはしない。これから何があろうとも、俺は
ずっとエディの側にいる。そしてこの手で、ずっとエディを守ってみせる」
 エディはしばらく身動きをせず、俺の目の奥をじっとのぞき込んでいた。
 彼女のまつげは細かく震えていた。
 唇は小さくわなないていた。
 エディはくすんと小さく鼻を鳴らした。そしてこらえきれないといった様子で俺の胸に顔
を埋めた。俺の首にエディの両腕がまわされる。
「ありがとう……うれしい……」
 エディは潤んだ瞳を隠すように、ゆっくりとまぶたを閉じた。やわらかな微笑みを浮かべ、
小さくて愛らしい二つのえくぼをこしらえた。
 ひとつ、またひとつと星が瞬きはじめていた。
 ほっそりとした月が姿を現し、清らかな光を静かに降らせていた。
 月明かりに包まれた俺達は互いをやさしく抱きしめ合い、甘くて切ない小さな世界を噛み
しめていた。
 俺はその間ずっとエディの存在を肌で感じ、失いたくないと心の底から思っていた。エディ
は共に冒険をする仲間であると同時に、その枠を飛び越えたかけがえのない特別な存在だっ
たのだ。
 ずいぶん前から深く入り組んだところに存在していた感情を、俺はようやく理解すること
ができた。エディが命をかけてそこに手を伸ばし、理解できるところまで引き上げてくれた
のだ。
 俺はエディの耳にゆっくりと顔を近づける。少し間をおいて静かにささやいた。
「宿に帰る前に……湖上の遺跡に行こう」
 夜を迎えた湖上の遺跡は、空に明滅する無数の星座に彩られる。遺跡を守る清らかな湖面
は、澄み渡る一枚の鏡に姿を変える。そして流れ落ちるような星の輝きを、余すところなく
きらびやかに映し出す。
 星達はどこまでも夜空に広がり、その姿は忠実に湖面に映し出される。視界いっぱいの星
達に囲まれながら、手にした大切な想いをエディに伝えたい。
「エディと二人だけで行きたいんだ。俺でよかったら……一緒に行ってくれないか?」
 俺は答えを待ち続けた。
 エディの体をしっかりと抱きしめながら、そっと顔色をうかがう。
 月明かりを浴びたエディの顔はどこまでも白く透き通っていた。俺の胸に顔を埋めながら
静かに目を閉じていた。
 俺は手を伸ばしてエディの艶やかな髪に触れる。愛おしむようにゆっくりと指を滑らせた。
 エディは素敵な夢の中にいるような微笑みを浮かべていた。
 とても幸せそうな微笑みだった。


 エディは永遠に微笑み続けた。








※筆者より

★おわりです。読んで頂いて本当にありがとうございました★